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SURF&SNOWインタビュー

ドジ井坂 Vol.4

ビーチクラブでの活動ともリンクしますが、ドジさんは「ニューサーフスクール」というサーフィンのトレーニングにも力を入れています。一般に知られているサーフィンでの体の使い方の常識は、ドジさん曰く、実は間違いだらけだとか。上達するためには、どのような練習がいいのか…。目からウロコの理論と、それに基づいたトレーニングキットで、改めてスポーツとしての正しいサーフィンを広めています。

 

~サーフィンの常識って、実は都市伝説だらけなんです~

Isaka04_01 ビーチクラブで実践的な海での遊びを広めている一方で、「ニューサーフスクール」というサーフィンの講習もやっていますよね? どんなコンセプトなんですか?

ドジ:あのね、サーフィンがスポーツにならない環境自体を、どうもサーフショップが作ってるんじゃないか、と僕は思ってるんですよ。モノは売っているけど、ノウハウは売ってない。サーフィンスクールなんか酷いものですよ。波が来たら後ろから押してるだけ。ゴルフで例えたら、後ろから一緒にクラブ持って振ってるのと同じじゃないですか。それでゴルフレッスンって言えますか? ゴルフの場合は、ゴルフコースと練習場がある。ゴルフコースは実践の場、サーフィンでいったら海です。でも練習場はないんですね。で、ゴルフ練習場のような考え方でサーフィンの練習ができないだろうか、と考えたわけです。やっぱりスポーツで言えることは、練習のプログラムがない限り上達は難しい、ということ。

ドジさんは「サーフィンクリニック」という教本的なロングセラーの著書がありますが、そうしたノウハウを教えているのですか?

 

Isaka04_02_2 ドジ:まず基本の理論は正確に伝えなければなりません。それは本に書いてあります。書いてなかったのは練習の仕方なんですよね。こうやったら上手くなるという理論は書いてあるけど、じゃぁそこで50回やったら確実にみんなより上手くなるよという、練習達成目標みたいなものを明確にしていなかった。他のスポーツのハウツー本を見てみると、ゴルフ練習場でどうしたらいいかって本まで出てるわけ。海は本番なんだから、その本番前にリハーサルしなきゃいけないですよね。

確かにそうですね。それでさまざまなトレーニングキットを開発したんですね?

ドジ:そうです。テイクオフトレーニングキットやパドリングトレーニングキット、バランスキューブ、バランススティック。これらを総称して「サーフィン修理工場」と言ってます。意外にみんな自己流でやっているし、無駄な動きをしている。サーファーの間で常識だと思われていることが、実は大きな間違いだったりすることが多いんです。都市伝説だらけです(笑)。実は、筋肉だってそんなにいらないんですよ。

え、そうなんですか?

ドジ:だってバランス良ければ子供だってできちゃうでしょ。子供ができるのになんで大人ができないかというと、間違った筋肉を動かしてるからなんです。パドリングトレーニングキットも負荷は1.5kg程度ですよ。これを一日100回やるだけ。100回やれば筋肉が動きを記憶してくれるんですね。昨年、高校生でJPSAロングボード女子のチャンピオンになった割鞘ジュリプロは、これ使うようになってパドリングがすごく速くなって、一気にサーフィンが開花しちゃった。あとは最近の若手で活躍が目覚ましい大橋海人プロにもトレーニングのアドバイスしています。

 

~今後、全国の主要な拠点に教室を開設していきたい~

Isaka04_03_2 このニューサーフスクールはどのくらい続けているんですか?

ドジ:もう2、3年になりますね。最初はサーフショップ中心にやってたんだけど、ちゃんとスクールの仕組みを体系立てていって、インストラクターも置けるようにしていこうと考えました。辻堂の駅前の「いい物件リスト」のビルにビーチクラブと共有のトレーニングルームがあって、日常的にインドアのクリニックもやってるんです。通常夜7時からのコースなんだけど、仕事終わるのが遅い人もいるから、夜9時からのコースもやろうかと思ってます。1泊2日のサーフィンクリニックもありますよ。泊まりの場合は、海で合宿。インドアで理論を理解し、練習を繰り返して、海で実践するんです。

海でひたすら練習するんじゃなくて、陸上トレーニングに重点を置くことって、今までの
スクールになかったですよね。

ドジ:今までショップでやってたスクールは、スクールじゃないでしょう。あれは単なるサーフィン体験の補助にすぎない。スクールっていうのは学習して習得するところ。毎日海に入れる人はいいけど、一般の人にはそれは現実的じゃないでしょう。だから今、ゴルフ練習場と同じ発想で、全国の主要な拠点にこういう教室を開設したら良いんじゃないかと思って、そういう運動もしていこうと思っているんです。

そうなると、スポーツとしてもっと広がりそうですね。

ドジ:よく海のマナーについてあれこれ言うけど、みんなサーフィンをスポーツと捉えて練習してから海に行くようになったら、マナーは自然に身についてくる思うんですよ。練習しないで海に行くって、ある意味マナー違反。スポーツとしてやってない奴がいるから、マナーが悪いんだよね。本来、普通の常識の範囲でお互いに問題解決できるはずですよ。それがスポーツなんです。

サーフィン未経験者も来るでしょうし、いろんな年齢の人が受講されてそうですね。

ドジ:これまでの最高齢は73歳。今度、千葉の養老院でこのキットを使ったトレーニングをしてみようと考えてます。60歳過ぎたオジイさんオバアさんサーファーが出てきたら面白いなぁ。

もちろん若い子も多いのでは?

Isaka05_01 ドジ:小学生もいますけど、小学生は例のビーチクラブのレベルで参加してもらえば良いんです。間違った知識や無駄な動きで手こずる大人と違って、子供は理論とかじゃなくて、体で覚えられちゃう。失敗したら、次はこうやってごらん、って教えると、とたんにできちゃう。それで、できたーっ!って開眼してハマる。それがスポーツの最大の魅力だと思うんですよ。

きた時の嬉しい気持ちは、大人も同じですよね。まさにサーフィンの醍醐味。

ドジ:だから、サーフィンの間違いだらけの都市伝説を正していきたいんですよ。正しいやり方を身につければ、スポーツとして上達するし、疲れない。

まさにドジさん自身が修理工場ですね。これからも、海を中心に多方面でのご活躍を期待しています。今回はありがとうございました。

ドジ:こちらこそ、ありがとうございました。是非みなさんにも、もっと海を利用して楽しんでほしいですね。

ドジ井坂 Vol.3

自身が関わった「相模湾アーバンリゾート・フェスティバル1990」で作られたボードウォークを、その後ドジさんはひらつかビーチパークとしてプロデュースし、そこにビーチクラブを設立します。ビーチクラブ型海岸活動の提言をし、国土交通省を巻き込んでのプロジェクトがスタート。海と人が共生していく場づくりを、きちんと行政と話し合って進めていく、まさにドジさんの真骨頂です。

 

~うまく行政を利用し、運営は自分たちでやるという発想です~

ドジさんが手がけたひらつかビーチパークは「相模湾アーバンリゾート・フェスティバル1990(通称=サーフ90)」の際に作ったんですよね?

ドジ:そうですね、89年にプレイベントをやって、90年に相模湾の三浦と藤沢と平塚と小田原の4ヵ所をコア会場にして行われました。海を遊ぶということをコンセプトに置いて、平塚にビーチパークを作った。なぜ平塚だったかというと、海水浴場がなかったからなんです。海水浴場がある7月8月はサーフィンができないし、ヨットやウインドサーフィンなどのセイル系もだめ、ジェットスキーみたいなモータークラフトも入ってこれなくなるでしょ。だったら逆に、真夏に人が見てる前で海水浴以外のスポーツができる場所を作ろうよ、というのが基本コンセプトだった。

Isaka03_01 海水浴場で禁止されている遊びができる場所…。まったく逆のコンセプトですね。

ドジ:はい。海水浴以外の他の遊びを排除している点で、海水浴場っていうのは排他的なエリアですよね。その排除された遊びを集めて、ビーチスポーツ&レジャースタジアムっていう名前でイベントをやったんです。風が吹いてきたらウインドサーフィンやセイリング系の連中が遊んで、波が上がったらサーファーがカッコよくサーフィンして、波も風もなかったらパドルするとかジェットで遊ぶとかね。ビーチが観客席で、海の上で遊んでいる連中がそれぞれヒーローなんだと。そうやって、それぞれ3つの違うコンディションの中での遊び方をみんなで工夫するんですよ。

世界を見てきたドジさんなりの理想みたいなものが平塚に活かされたのですか?

ドジ:あんまり僕は理想って考え方をしないんだけど、なんとなくこうなればいいなぁ、っていう思いはありました。あとは海に対する利便性の問題を考えた。
道具をみんなでパブリックに共有できて、好きなものを楽めたらいいなと。そのためには解ってる人間がそれぞれの地域や施設にいてくれたら便利ですよね。そう考えていくと、結局は人間を養成することを含めて、ひとつのプロジェクトになっていくわけです。

一般的に行政主導でハコモノを作ると、ハードを作ったはいいけど、ソフトがないからその後の利用が続かなかったりしがちですが。

ドジ:行政に依存してるからそうなるんだと思う。僕の場合、行政を利用すればいい、っていう発想ですから。行政に仕掛けて造らせたら、その後はこっちが運営する。ちゃんとした二人三脚状態をいろんな形で作っていけばいい。これからどんどん行政のテリトリーを取っていっちゃおうと思ってます(笑)。

 

~コミュニティとしてビーチクラブが広がっていけば良いですね~

Isaka03_02 ひらつかビーチパークから、海との共生をテーマに、通年型ビーチクラブが生まれたんですよね? 

ドジ:92年に正式にビーチクラブができて、その活動が上手く実って96年にビーチセンターの施設が海岸にできたんですね。で、平塚での実績が湘南に飛び火すると思っていたら、日本の行政は縦割りだから隣町で何やってるのかほとんど知らなくて、いっこうに何の動きもないわけですよ。そうしたら国土交通省のほうから、平塚のビーチパークとビーチクラブの海岸利用は面白い、ということで、新しい海辺の文化創造研究プロジェクトをやりたいから、その委員をやってくれって言われたんです。

国交省の社会実験的なプロジェクトですよね。

ドジ:そう、予算も付けてくれた。じゃぁ今度は試しに海水浴場で海岸利用の実験してみましょうということで、2003年に江の島でやったわけ。江の島水族館と組んで江の島ビーチクラブを作った。それで湘南各所に、ちょっと面白いから仕掛けるぞー、って声かけて、自治体を巻き込んでビーチクラブを作っていったんです。なにしろ国交省のプロジェクトという錦の御旗がありますから、すんなり話は通りますし。今は一般社団法人にして、体験学習や修学旅行のプログラムを逗子市の観光課と組んで企画したり、今度伊豆の下田市にもビーチクラブ作ることになってるんです。

今ビーチクラブはどのくらいあるんですか?

Isaka03_03_2 ドジ:今は12まで増えました。それぞれの海岸の特性を活かして、遊ぶ種目も違います。鴨川だとサーフィン系が多いですけど、逗子とかは今10種目ほどありますね。マリンスポーツやビーチでできる遊びです。夏場の体験参加者は500人くらいになりますよ。

500人!? 定員とかはないんですか?

ドジ:定員は設けてないです。人が来た中からまたボランティアが生まれていくんで、定員を作る必要はないと思う。今、逗子ではシニアのボランティアの方が30人位登録してて、彼らがサーフィンやウインドサーフィン、その他の新しいスポーツを覚えながら、人にも教えている。彼らは以前、企業の社長だったりホテルの支配人だった人たちですよ。だからリーダーシップをとって人を引っぱっていくのが上手いわけ。そんな人たちがテントの設営から指導までやってくれてるんです。

じゃあボランティアだけでも相当な人数いるんですね?

ドジ:100人以上います。体験者も含め、もうこれはコミュニティ活動ですね。体験者も、以前に鴨川で体験したけど、今度は逗子で参加してみようとか、交わりや広がりがでています。温泉と一緒ですよ。一カ所の温泉だけじゃなくて、気持ちいい温泉というコンセプトを、いろんな場所で楽しみたいわけでしょ。そこで観光というものが生まれる。だからこれは、海観光みたいなものです。今、式根島や新島、神津島ででも何かできないかって東海汽船と企画を考えているところ。今後もどんどん広がっていきますよ。

つづく…

ドジ井坂 Vol.2

1980年になると、ドジさんは競技の第一線から退き、メディアを活用してサーフィンのイメージアップや普及活動に力を入れていきます。ブームのきっかけを作り、湘南はカリフォルニアのようにビーチカルチャーの発信地に。テレビでは「オールナイトフジ」のサーフィンコーナーでレギュラー出演するなど、持ち前のキャラクターを活かして大活躍。さまざまなイベントも仕掛けました。

 

~日本にも、ビーチ発信のカルチャーが生まれました~

Isaka02_01 サーフィンをメディアで一般にうまくPRしたのも、ドジさんでした。何か意図があったのですか?

ドジ:60年代終盤から70年代のサーファーって、僕らもそうだったけど、やっぱりカウンターカルチャーがベースで、体制反発型でしたからね。海系ヒッピーみたいなことを地でやっていた。まぁ今で言う不良の原型を、これもアメリカのファッションだろ、みたいな感じでサーファーはデモンストレーションしてたわけですよ。でも80年代を前にして、ふと思った。海外では70年代にプロ化が進み、自分も76年に全日本プロサーフィン選手権大会で初代チャンピオンになってたし、サーフィンのプロフェッショナル化とは何か、ということを意識するようになった。本当のプロスポーツにするために、やっぱり一般の人に知ってもらおうと考えたんです。で、マスメディアでPRする考えが自分の中に芽生えて、テレビやラジオに出るようになった。それからFineを含め、サーフィン誌以外の媒体にどんどんサーフィンを紹介した。一般の読者に向けて、海って面白いよ、サーフィンって楽しいよ、っていうことを言い続けた。海がもう少しみんなにとって良い場所になったらいいなぁ、と思ってましたから。

それは大きな効果を生みましたね。80年代初頭にはサーフィンブームが来ましたし…。

ドジ:ええ、それまで湘南という言葉は一般的ではなかったんだけど、一気に若者の夏のカルチャーの中に、湘南詣でのようなブームが沸き起こったんですね。僕らは「湘南カウンティ」ってその頃言ってたんだけど。つまり神奈川県の中の湘南郡。この湘南がビーチカルチャーの発信源だ、というふうに意識していた。水着ファッションっていう言葉からビーチファッションに変わったのも、その頃だった。水着だけでなくTシャツも、サーフトランクスも、いろんな小物がビーチ発信で流行りましたよね。カリフォルニア文化とハワイ文化が混ざって、日本独自のサマーカルチャーを生み出していた。それは、かつての海水浴文化とは全然別もののファッションであり、カルチャーだったことは事実でしたね。

ドジさんが見てきたカリフォルニアの海沿いの雰囲気に、かなり近づいたんじゃないですか? 

ドジ:湘南とカリフォルニアを比べると、どこか雰囲気は近いものがありますよ。例えばロサンゼルスのサンタモニカからレドンドまでって江の島とか鎌倉っぽいし、南のラグーナまで下りると葉山っぽかったり、ニューポート・ビーチあたりはちょっと逗子マリーナや葉山マリーナみたいだし。ハンティントンは平塚っぽかったりしてね。地域ごとに特性があって、住んでる人もちょっと違う。こじつけて見ると何か似たようなものがある。だけど、雰囲気や環境は近くはなったものの、いっこうに湘南の海岸に施設ができないのが、僕にとっては最大の疑問だった。なぜ日本は夏だけ海水浴場に海の家を作って、また壊しちゃうのか…。

 

~企業や自治体を巻き込んで、いろんな仕掛けも作りました~

サーフィン界では81年から「丸井プロ サーフィン世界選手権」をプロデュースしたことは有名ですが、83年にはウインドサーフィンの世界大会「サムタイムワールドカップ」のイベント・ディレクターも務めましたね。

ドジ:僕にとってはサーフィンやビーチカルチャーを通して、海水浴場を含めた海との関わりがいろいろと見えてきた頃でしたね。サムタイムのウインドサーフィンの大会をプロデュースする時にまず思ったことは、波以上に風ってオンとオフが激しいわけだから、風が吹くまでの間はサーフィンのアトラクションでもゲームでも何でもいいから、とにかくビーチにいて1日楽しめることをプロデュースしなきゃ、って思ったんです。

Isaka02_02 ビーチでのイベントですか?

ドジ:ビーチをもう少し日本人が気軽に使えるようにしたいと思いました。サムタイムのウインドサーフィンの施設がビーチセンター化していて、そこに来れば売店もあるし放送もやってて、アトラクション的なものもある。もちろんハイライトには世界最高峰のすごいレースが行われるんだけど、レースがない時にもその他のエキシビジョンがあって、要するにリゾートとして楽しめる。そういう施設を作ることによって非常に面白いことができるんだなぁ、って80年代にウインドサーフィンの大会をやって思いましたね。

スノーボードも早かったし、かなり普及に尽力されました。

ドジ:実は、スキー場と海水浴場ってすごくよく似てて、排他的。スキー場は冬の降雪期間だけの仮設営業でしょ。スキー場と名乗っているから、ここではスノーボード禁止、スノーボード場をどこかに作ればいいじゃないかって、すごく乱暴なことを言う人が当時は多くてね。で、反逆精神がメラメラと沸いて、航空会社と組んで北海道のスノーボード無料体験キャンペーンをやって、全北海道のリゾートでスノーボードを解禁させちゃった。そんな仕掛けを作って、徐々にスノーボードがスキー場でも受け入れられるようになっていったんです。

そういういろんな仕掛けのアイデアは、やはり海外の事情を知っているからなんでしょうか?

ドジ:80年頃からASP(世界のプロサーフィン連盟)の広報担当的な仕事をやってたんで、世界中の海岸を周る機会があったんです。必ずレセプションなんかあってその土地の行政の人とお話できるんで、案内して頂いたり、その海岸の生い立ちみたいなものを聞かせて頂くんです。リゾートに発展していったビーチと、日本の海水浴場とでは、そもそもメンタリティが全然違う。そういう取材や知識が、自分にとっては糧になっていますね。

つづく…

ドジ井坂 Vol.1

幼い頃から茅ヶ崎の海で育ち、日本のサーフィン黎明期にサーフィンを独学で始め、初代チャンピオンに輝いたドジ井坂さん。初めてカリフォルニアを訪れた1960年代後半、遊ぶ側も管理する側も大人の常識で海と関わっているアメリカのビーチカルチャーと、季節限定で排他的な日本の海水浴場文化の差に愕然としたとか。この経験が、ドジさんのその後の活動のバックボーンとなりました。

 

~裸足で歩く砂浜の感触が、海との関わりの記憶ですね~

そもそもドジさんと海との関わりの原点は、やはり茅ヶ崎の海ですか?

ドジ:その頃の茅ヶ崎は何もない半農半漁の田舎でね。東京から少しずつ人が住み始めたようなところだった。ウチも東京から移ってきた、移住組のはしりでした。子供の頃の遊び場というと海か松林か畑の中。学校も家も海岸に近かったこともあって、いつも海岸を通って登下校してました。幼稚園の時に好きだった女の子が溺れて亡くなったりして、海に対して妙な、不思議な気持ちを持ちながら、自然と海と付き合っていた感じですね。ウチは台風になると「波すごいよね、見に行こうか」って一家総出で海見に行っちゃうような家でした。一回波打ち際で流されちゃったこともあったし。

Isaka01_01 子供の頃に、楽しいだけじゃない、いろんな表情の海を経験されているわけですね。

ドジ:子供の頃は砂浜で思いっきり遊んだ記憶があります。固いグラウンドだとできない突き飛ばすような遊びも、砂浜なら転んでも痛くない。そんな裸足で砂粒の上を歩いてる感触が、今でも自分の中には海の感覚として残っていますね。

そんなドジさんがサーフィンと出会ったのは、中学生の頃ですか?

ドジ:ちょうどビーチボーイズ、ベンチャーズ、ジャン&ディーンなんてサーフィンの音楽が出てきた頃で、テレビでも流行ってた。僕はアメリカにかぶれ始めて、最初はアメリカン・フットボールをやりたかった。それで生意気にも銀座の洋書屋さんに雑誌を買いに行ったわけ。そこでサーフィンの雑誌を見つけたのがきっかけでした。これって、茅ヶ崎の海だったらできるじゃん、みたいな。

でもサーフボードはまだ日本にはなかったですよね?

ドジ:ところが意識してよく見てみると、厚木や座間の米兵が夏になるとボード持って茅ヶ崎あたりに来てるんだよね。そんな彼らを追っかけまわして、片言の英語で、どういうもんなんだ、見せろとか乗せろとか言って貸してもらって、面白くなっていったんです。60年代の初頭の話ですね。僕は洋書屋で見つけた、サーフボードの図面が書いてある本を見ながら木造のサーフボードを自作しました。ちゃんと機能しましたよ。でもね、誰もサーフボードなんか知らないでしょ。だから置いておいたら、何これ、って燃やされちゃったの(笑)。

その頃、周りにサーファーはいなかったんですか?

ドジ:当時、大磯や鵠沼にも同じようにサーフィンを覚えた連中がいてね。地域ごとにサーフクラブもでき始めていた。僕らは茅ヶ崎バーバリアンズといって、西野くんという友達の家の庭にクラブハウスを建てて、たまり場にしてました。ウレタンフォームが手に入るようになってからは、サーフボードも自分たちで作った。ボードをお店で買った記憶がない。ほとんど自給自足か、友達が作ったものを買うか。結局その後、サーフボード・メーカーにもなっちゃいましたけどね。

 

~アメリカを体験して、日本の海は変だぞ、と思いましたよ~

日本のサーフィン黎明期を体験されているドジさんですが、世界に出たのも早かったですよね?

ドジ:初めての海外は1968年。1ヵ月半ほどカリフォルニアのアーニー・タナカというシェイパーさんのところに、サーフボードの削り方の基本やテクニックを習いに行きました。ノウハウみたいなものは日本にはなかったんですよ。サーフィンはその頃、文化的にもカリフォルニアだったし。ファッションもそう。やっぱりナマでそういうものを見たいっていう意識が強かった。もともとアメリカ文化に傾倒しちゃってる人間でしたからね。

その翌年に初の全日本サーフィン選手権の初代チャンピオンに輝きましたね。

ドジ:そうそう。それで次の年、メキシコで開催される予定だった世界選手権に日本代表として出場するために行ったんだけど、実は大会はキャンセルになってた。知らなくてウロウロしてたら、アメリカのサーフィン雑誌に「ドジな日本のチャンピオンがメキシコでコンテスト会場を探してたぞ」とか書かれちゃって…。「翌年のオーストラリアの大会でも「君がドジな日本のチャンピオンか」って言われて、いつの間にかドジっていうのが通称になっちゃったんです。

Isaka01_02 早い時期から海外へ行かれたことで、日本の海と海外の海との違いみたいなものを感じましたか?

ドジ:圧倒的な違いは、ビーチにいろんな施設があることですよね。シャワーや駐車場、それからライフガードの詰めてる管理塔。ロサンゼルス郊外には、一年中海で遊べる環境がありました。海沿いの道路にはドライブインがあって、そこから海が見えて、サーファーたちがみんなでハンバーガーを食べてるんですよ。日本は夏場の海水浴場しかないけど、向こうの海は一年中人が利用できる。すごいカルチャーショックでしたね。もうその頃から日本の海岸はおかしいぞ、何とかして一年中海が使えるようにしたい、と思うようになりました。

日本の海文化は、海水浴場ですもんね。海開きなんて言葉もあったりして…。

ドジ:おかしな言葉だよね、海なんて一年中開いてるのに。突然7、8月に人がわいてきて、また9月になると突然人がいなくなる。ちょっと異様。人が管理しているのは2ヵ月だけで、後は自然海岸に戻してるわけです。で、海や川は危ないですよ、っていうキャンペーンを国土交通省がやってたからね。だから海に慣れてない人たちは、海水浴シーズン以外の海は危険だと暗示にかけられちゃった。

海外では、遊べるビーチにはライフガードが通年いますよね。

ドジ:しかも、その海を一年中使うために彼らはどのように海岸管理をするかを考えてる。日本のライフセーバーやライフガードのような単なる救助員とは違います。もっと大人の世界ですね。利用する市民もいろんな目的で海で遊んでて、管理側もそれを受け入れる。双方に大人の常識があるんでしょうね。日本は海水浴以外の遊びは認めないから、サーフィンなんかはガキの遊びみたいな位置づけにされちゃうんです。そうした差異を知り、漠然とですが、なんか日本は変だぞって思ったわけです。

つづく…

ドジ井坂 プロフィール

Isaka05_02 ドジ井坂★どじいさか(本名:井坂啓己 いさかひろみ)

生年月日:1948年3月13日
出身地:東京出身、神奈川県茅ケ崎市育ち
職業:海おやじ(海のスポーツ&遊びをすべて受け入れて楽しむ指導者リーダー育成&伝承のためのキャラクター)、一般社団法人 ビーチクラブ全国ネットワーク 理事長、Beachschool.com 主宰、株式会社 海十山商品研究所 取締役

1969年、全日本サーフィン選手権で優勝、70年にオーストラリアの世界選手権に日本人として初出場、76年には全日本プロサーフィン選手権の初代チャンピオンに輝く。日本サーフィン史にその名を刻むサーフィン界のレジェンド。81年から「丸井プロサーフィン世界選手権大会」をプロデュース、83年にウインドサーフィン世界大会「サムタイムワールドカップ」のイベントディレクターを務める。90年に「サーフ90」のプロジェクトに関わり、ひらつかビーチパークの開設を企画。その後「ビーチクラブ全国ネットワーク(http://www.beachclub.jp/)」の事務局を設立し、全国にビーチクラブのコミュニティを広げる。現在、独自の理論に基づいたニューサーフスクール(http://www.beachschool.com/)を主宰。サーフィンやマリンスポーツの普及やビーチカルチャーの振興に尽力する。

スポンサー/「いい物件リスト」リスト株式会社(神奈川のビーチクラブ全体をスポンサー)、パタゴニア(スタッフウエア提供)、ハワイアンアイルス、ビラボン

牛越峰統 Vol.4

選手時代から兼任していたJPSAの理事の仕事。引退後は、理事長という大役を任されました。昨年まで現役バリバリだった選手が理事長に就任するのは30年近いJPSAの歴史の中でも初めてのこと。牛越さんらしい、より選手目線の新しいJPSAとは?また熱く繰り広げられるコンテストの魅力も語っていただきました。

 

~世界に通じるジャッジ・システムの統一をはかりました~

Vol4_1 さて、引退されて今年からJPSAの新理事長に就任されました。まず何に取り組んでいますか?

牛越:まずはジャッジの統一をはかることに取り組みました。今年の2月のトレードショーの時に、3団体すなわちASPインターナショナル・ジャパン、NSA、JPSAのトップ会談をさせて頂いて、ジャッジのシステムの統一に関して協力してもらいたい旨を相談させてもらったんです。これまで3団体でジャッジの基準が違ってましたが、ASPの世界標準に合わせてジャッジのシステムを統一したいと。NSAのアマチュア・サーファーがプロに転向してJPSAにきても、JPSAから世界へ挑んでいっても、通用するようにしたい。嬉しいことに、どの団体も、それを早くやりたかったと言ってくれて、協力してくれてます。もちろん、今までのジャッジ・システムの基準を築き守ってきたJPSAの先輩方には、今後も要所でJPSAのジャッジングを次世代に伝えるなど、ご指導いただきたいと思っています。

日本から世界のトップで通用する選手を出すというのが狙いですね?

牛越:はい。そういう意味では今年からのJPSA新体制は、昨年まで選手だった僕の意向が強いですかね。より選手の立場で考えてます。現状、3つの団体が他団体のジェッジパネルに参加したり、あるいはジャッジを習ったりと、交流を持ちながら、今年の最初の4戦をやってきました。はっきり言って評判は良いですよ。ルールブックもそれに乗っ取って作りましたし。アマチュアの若い子たちも、今のジャッジの基準が世界の基準に繋がっていると思えば、やる気も出るでしょう。

世界を目指すサーファーも増えますよね。

牛越:
サーファー人口って増え続けていると思うんですよ。そのサーファーたちの頂点を決める日本国内最高峰の試合をやりながら、チャンピオンの価値を高めていけるようにしたい。そして世界へ繋げていきたいですね。

今年は例年のツアー以外にも何か企画がありますか?

牛越:ショートボード5戦、ロングボード5戦はしっかりこなして、それ以外に、いわゆるクラシック・ポイントでのビッグウェイブ・コンテストを実現させたいですね。仙台、宮崎、あと千葉のマリブで、ビッグスウェルが来た時のみ開催されるスーパーヒートを是非やりたい。デカい波で日本のプロサーファーが魅せるヒートは、普通のコンテストとはまた違いますから。

 

~JPSAの大会で、国内最高峰の最新テクニックを是非見てほしい!~

やっぱりサーフィンしたことない人にもプロの試合を見に来てほしいですよね。

牛越:もちろん。サーフィンという競技がプロ化してることをまず知ってもらって、国内最高峰の試合が見られるってことをアピールしたいですね。今の最先端のサーフィンのテクニックを駆使したコンテストを是非ナマで見てほしい。

同時に、多くの人にサーフィンにも挑戦してもらいたいですね。

牛越:是非体験してもらいたいですね。ロマンチックに聞こえるかもしれなけど、乗る波との出会いは一期一会。本当に同じ波って二度と来ないんですよ。風の向きだったり、海底がビーチだったりリーフだったり、低気圧のうねりだったり、その低気圧の過ぎた後のバックスウェルの波だったり…。一言で波と言っても、いろんな波があるんです。その波に1本乗れたときの感動を、まず味わってほしいですね。海辺のショップのスクールなり、安全に習う方法がいろいろありますので、これから夏のシーズンを迎えるにあたって挑戦してほしいです。病み付きになりますよ。

先頃のロングボード第2戦の女子で優勝した選手はサーフィン歴5年未満と聞きました。

Vol4_2 牛越:今から始めてもプロになれる可能性はありますよ。今後プロサーファー育成のためのスクールも増えるでしょうし、若い子で早くから頑張ればサーフィン歴3年くらいでプロになれるかもしれません。ただ、自分が電車サーファーで辛い思いしたからあえて言いますが、過保護に育てすぎるのもどうかなと思います。可愛い子には旅をさせて、我慢強さをしっかり身につけさせることも大切。サーフィンは技術だけで勝てるものでもないんです。

強くなるためにはメンタルも重要なんですね。

牛越:そうです。勝負の世界はそんなに甘くはないですよ。

なるほど、そういうところもコンテストの見所ですよね。

牛越:はい。夏に向けてみなさん海に向かわれる方も多いでしょうし、最近はいろんなスタイルでサーフィンをエンジョイする方も増えてますが、その日本中のサーファーの中の頂点を極める場所、それがJPSAの国内ツアーなんです。すでに今年もツアーは始まってます。www.jpsa.comでスケジュールをチェックできます。日本の一番を決める最高峰のサーキットですから、是非一度見に来てもらって、最新のテクニックや駆け引きなどのヒート中の熱い攻防を目の当たりにしてほしいですね。

本当にそうですね。これからも頑張って下さい。今回はありがとうございました。

牛越:
こちらこそ、ありがとうございました。コンテスト会場で待ってます!

牛越峰統 Vol.3

日本のプロサーフィンの世界で頭角を現すと、目標は徐々に世界へと向き始めます。侍魂で臨んだ世界への挑戦で、当時としては日本人最高位の89位をマーク。その経験を武器に、遅咲きながら32歳でJPSAグラウンド・チャンピオンも手中に収めました。国内外で永い間、名実ともにトップサーファーとして君臨。その牛越さんが、プロ生活20年目に出した結論とは…。

 

~世界の強豪と戦って、さらにどんどん上手くなりました~

JPSAで初優勝を遂げてから、プロとしての自信や自覚が芽生えたのでは?

牛越:そうですね。周りでスポンサーも動き出して…。ちょうど23歳くらいでしたかね、当時のASPの日本のディレクターに「世界に挑戦しろよ」って言われたんですよ。それで、世界に照準を合わせて活動しはじめました。

その当時、日本人で誰が世界を回っていましたか?

Vol3_2 牛越:日本でビッグ4と呼ばれていた、糟谷さん、久我さん、関野さん、福田さんたちは世界に行ってました。その下の沼尻さん、鈴木直人さん、河野正和さん、今村大輔さんも出てたと思います。僕らはその下の世代。脇田貴之とか福地孝行、小川直久、浦山哲也、吉岡智文、小川啓などですかね。ほぼ10年近くこのメンバーで世界の試合を回ってました。

国内のJPSAの大会にはそれほど出てなかった?

牛越:でも、出られる試合は全部出てましたよ。

世界の高いレベルで戦うわけだから、第二の吸収期だったんじゃないですか?

牛越:ええ、そりゃぁもう上手くなりましたよ~(笑)。世界の強豪と戦ってるんで、気持ちも強くなりましたしね。

でも当然プレッシャーもありますよね?

牛越:目標はWCTという世界トップ44人のサーキットに入ること。スポンサーからもはっきり言われました。「勝たないとダメだぞ。侍魂で行って来い!」って。

98年には、世界ランク89位をマーク。当時の日本人最高位で快挙でした。

牛越:当時はサーフィン・ビジネスも良かったんで、スポンサーが年間のエアチケットをフルカバーで出してくれてました。ラッキーというより、行かなきゃいけない、トップ44に入らなきゃいけない、っていう使命感がありましたからね。Made in Japanのボード“ロックダンス・サーフボードが世界にチャレンジする”というような気持ちで、もちろん他のスポンサーの夢も背負って戦ってました。

世界を転戦するのはハードですよね?

牛越:ブラジル・レッグが1ヵ月に4戦あった時は、リオからフロリアポリスなど1週間ずつ渡り歩いて試合をこなしてましたが、やりがいというか、使命感がありましたね。海外で成績が一番良かったのはフロリアポリスでの6スターの大会で9番に入った時です。当時はフラリビオ・パラダッツやファビオ・ゴーベアとかの地元ブラジルのチャンピオンがいましたから、けっこう大変でしたよ。

 
 

~グラウンド・チャンピオンは、向こうからやってくるものだった~

そんな牛越さんが、その後、国内のJPSAグラウンド・チャンピオンに輝きます。

牛越:ずっと海外の大会にフォーカスしていたんですけど、国内のJPSAでも優勝がないながらもトップ16はなんとかキープしてたんです。それが、2001年だったかな、仲の良いカメラマンにハワイで「そろそろ嘘でもいいから日本のチャンピオンとっておいたほうが良いよ」って言われたんです。ズキーンときました。経験は積んできたけど、考えてみると自分には目に見えるタイトルって何もなかった…。

で、JPSAに絞ったわけですね?

Vol3_1 牛越:ハワイの試合とかは出てましたけど。でもJPSA一本に絞ったからって、すぐに勝てるわけじゃない。そこからトレーニングに燃えましたね。週4回東京でトレーナーつけて、2時間トラック、2時間ウェイトのサーキット・トレーニングをみっちりやりました。その成果が2002年インドネシアで開催されたバリ・アロハ・ガルーダ・カップで実を結びました。

優勝したんですよね?

牛越:はい。この時、波が8~10フィートと大きく、流れも強くてものすごく体力を使うコンディションだったんです。20分くらいパドリングして、1本乗ってまた20分かけて沖に出て、というタフな試合でしたが、トレーニングの成果が活きました。で、JPSAで7年ぶりに優勝しました。この優勝は、自分にとってさらなる自信になりましたね。この年は年間2位でした。

そして翌年、2003年のグラウンド・チャンピオンに輝くわけですね。

牛越:そうですね。4戦中2戦を勝ってたんですけど、僅差で争っている選手がいて、結果は最終戦までもつれ込みました。最終戦はバリだったんですが、自分は1コケ。相手選手の結果を待つのが苦しくて…。でも最後の最後に自分に優勝が転がり込んできたんです。女子のプロでグラウンド・チャンピオンに何度も輝いている小野里みゆきさんが以前に言ってたことを思い出したんです。「チャンピオンはとろうと思ってとれるもんじゃない、向こうからやってくるもんだよ」って。要はやるだけのことをやれば、あとは結果がついてくる、ということですよね。

あとは、あのパイプライン・マスターズにも出場しましたね。

牛越:世界最高峰のパイプラインの大舞台で、2週間のウェイティングの中でしっかり体調整えて待機して、どんなにデカくてもゲッティングアウトしたということは、自分の経験のバックボーンになっています。日本人では脇田貴之や小川直久、福地孝行が出てましたが、福地と自分だけレギュラーフッターでバックサイドですよ。フィジカルとメンタル両方強くなきゃやれない試合に、3年連続出場させてもらえたのは誇りです。

そしてちょうどプロ生活20年目で引退ですが、以前から考えてたんですか?

牛越:引退を決意したのは2009年のツアー半分回った頃、夏前くらいですかね。僕みたいにプロ20年もやってると、2位も1コケも変わんないんです。今サーフィンのレベルもだいぶ変わってきている中、優勝の可能性がないなら身を引こうと。

悔いははなかったですか?

牛越:いろんな過去のシーンで悔いみたいなものはありますが、それは一生の思い出かな。ただ、選手を辞めたことに関しては、悔いはないです。

つづく…

牛越峰統 Vol.2

プロサーファーになったものの、なかなか勝てなかった時代が続き、初優勝まで6年もかかることに。しかし、その間も毎冬ハワイ修行に通い、培ってきたスキルがとうとう開花します。宮崎で開催された世界大会の一戦で2位。続くJPSAの新島での試合で、念願の初優勝。いずれもサイズのある波。ハワイ修行で築き上げた自信が、勝利を呼び寄せました。

 

~東京出身の自分が、東京都新島で初優勝。自信がつきました~

プロになってすぐに活躍できましたか?

牛越:プロトライアルに受かった茨城サーフィン・クラッシックがプロとしてのデビュー戦でしたが、そこではセカンドシードまでいきました。プロ初試合は33位でフィニッシュ。ただ、それ以降の試合は全部1コケばかり。「東京の17歳のガキがプロだと? 甘いんじゃねぇの?」みたいな感じで、プレッシャーをかけられました。実際に試合になると全然乗せてくれないし、まぁ勝負の世界ですからね。

戦績も伸びないし、食べていけなかったのでは?

Col21 牛越:
プロになったからには実家に頼らず自分で稼ぐしかないと思って、18歳から千葉の夷隅にアパート借りて、クルマを手に入れ、なんとかやってました。初優勝まで6年かかるんですけど、その間はプロサーファーとして活動しながら、職人の仕事もしていました。

長いトンネルを抜けたのが、94年の宮崎でのASPワールドツアーですよね?

牛越:ええ、94年の10月。この時のWQS(ワールド・クオリファイ・シリーズ)が世界大会における僕のデビュー戦でした。

なんと日本人初のファイナルに進んで、結果は2位でした。

牛越:はい。これが自分にとって、その後のとっかかりになりましたね。

翌年95年4月のJPSAで初優勝もしますね。

牛越:
新島でのムラサキカップですね。東京出身の自分が、東京都新島の大会で初優勝。個人的に嬉しかったし自信もついた。何かその辺で自分なりに勝ち癖じゃないけど、勝つためのコツみたいなものを手に入れたという実感もありました。

勝因は何だったんですか?

牛越:宮崎も新島もサイズがある波だったことですかね。自分なりにサイズのある波やオンショアでデカい波だったら負けない、自分は勝てるんだ、っていうのがはっきり見えた時でした。

それはハワイの経験がやっぱり大きかった?

牛越:
間違いなくハワイですね。ちょうど二十歳の時にロックダンス・サーフボードからスポンサーを受けたんですが、チームでハワイ修行に行くと、他のサーファーが入っていないクローズアウトしたパイプラインとかに僕らは入っていくんですよ。そんなデカくてハードな波でやってたんで、日本のオンショアで頭半ぐらいの一般的にゲッティングアウトしずらい波なんかは、けっこう楽勝なイメージ持ってました。でかい波は勝てる。そういう自信が持てた頃だったんです。

 


~ハワイで良い写真を残す。それもプロの仕事です~

Vol22 ロックダンスは、当時から常に良い写真で雑誌に見開き広告を出してました。そんな中でも最も写真が多かった選手の一人じゃないですか?

牛越:当時はインターネットもなくて雑誌媒体がメインだったから、随分広告で写真を使ってもらいました。ノースショア・アタック!みたいな感じでね。まだフィルムの時代だから、ハワイ在住のカメラマンは現地で現像してましたけど、日本から来てるカメラマンは帰国して現像しないと上がりがわからない。こっちは2、3ヵ月ハワイにいて帰国すると、スポンサーから「オマエ、全然写真ないぞ! もう一回行ってこい!」なんて言われて。で、もう一回行って本気になると、良い写真撮れたりするんです。それで雑誌のカバー飾ったりね。

写真撮ってもらうのも仕事ですもんね?

牛越:被写体である僕らサーファーとカメラマンがいて、はじめて写真が撮れるわけですが、実際はカメラマンがいる目の前でサーフィンしてました。あっちの波の方が良い、とか言えず、ただカメラマンがいるところでサーフィンするしかなかった。でも冬のノースショアのビーチには、世界中のカメラマンが600ミリレンズの大砲を並べてましたから、1本良い波乗ったら世界に出るチャンスもあったんですよ。

日本人の中では撮られていたほうでは?

牛越:やっぱり600ミリレンズの砲列の前で乗らなきゃダメなんですよ、コンペティターは。

外国人のカメラマンにも認知されて水中のショットとか撮られてましたよね?

牛越:彼らもビジネスとして日本のメディアに写真が売れると考えたんでしょうけど、まずはちゃんと乗れるのかというのが重要視されますよね。

バックドアとかオフザウォールとか、突っ込んでましたね。

牛越:ええ、オブザオールの6フィートに入るって結構大変だったんですけどね。ダンパーでも突っ込んでいかなきゃならないじゃないですか。クレージーって言われてたくらいですもん(笑)。でもそれでビューティフルなインナーバレル・ショットが撮れたわけなんですけどね。

つづく…

牛越峰統 Vol.1

2010年の日本プロサーフィン連盟(JPSA)の理事長に就任した牛越峰統さん。昨年、20年間に及ぶプロサーファー生活にピリオドを打ち、惜しまれつつも引退。圧倒的な実力を持ち、国内外で活躍されてきた牛越さんに、ご自身のこれまでのサーフィンライフやプロ生活での思い出、さらには新理事長として今後のサーフィン界をどのように盛り上げていくかなど、さまざまなお話を伺いました。


~はじまりは、電車サーファーでした~

出身は東京の調布ですよね。サーフィンを始めたきっかけは?

牛越:兄がサーフィンを始めて、家にサーフボードを持ってきたんです。え、何これ、サーフボード?みたいな感じでした。僕が中学一年生の時でしたね。でも兄は海に連れて行ってくれなかったんで、同級生3人と中古のボロボロのシングルフィンを1本手に入れて、小田急線に乗って湘南の鵠沼まで通い始めました。

スタートは電車サーファーだったんですね。

Vol11 牛越:
中三の頃には仲間が10人以上にまで増えて、ウエットスーツも先輩のお古をもらったりしてね。週末は土曜の午後に学校終わってから海に行って、そのままテント張って泊まって、日曜の終電で帰宅してました。中学生ですからね、ある意味で小旅行。まさにサーフトリップしてました(笑)。

最初のテイクオフで立てたんですか?

牛越:はい、一発目で立てました。スケートボードはやってたんで、横乗りの感覚はイメージできてましたから。腰ぐらいのセットだったと思うんですけど、数秒間海の上を滑って、何ともいえない浮遊感に最高に感動しました。足から何かすごいエネルギーが伝わってきて、もうその時サーフィンに惚れこんでから今まで、20数年ずっと病み付きですね。

プロになったのは17歳と早いですよね。プロを意識したのはいつ頃ですか?

牛越:
今でも覚えてるんですけど、実は最初のテイクオフで「このスポーツで何かやっていきたい」と思ったんですよ。プロサーファーになるとか賞金稼ぐとか、当時はよくわからなかったけど、サーフィンでやってくんだって漠然と思ったんです。

じゃぁ、サーフィンと出会ったのは運命だったんですね。

牛越:
今振り返れば、そうだったのかもしれません。その後は地道に一歩一歩、NSAのアマチュアとして支部予選出たり、全国のアマチュア・サーファーにライバル意識燃やしたりしながら、プロトライアル受けるところまで進んでいきました。

でもその頃まだ運転免許もなかったでしょう?

牛越:
兄の友達とかが免許を取り出してから、湘南以外のところにも連れて行ってくれるようになって、千葉の海の波のパワーとかを知り、世界が広がりました。プロになる1年位前に千葉に通いだして、またスポンサーが付いた関係で千葉とか東北石巻とかいろんなところに行くようになりましたね。3年間電車で海に通ってた頃と比べると、なんて快適なんだ、と思いました。

 

 

~16歳でのハワイと17歳での世界ツアー初参戦で急成長しました~

初めてのハワイを経験したのもプロになる前ですか?

牛越:そうですね、たしか16歳の時。ウエットスーツのスポンサーのチームライダーとしてプロの先輩に混じってハワイ修行に行かせてもらいました。チームといっても体育会系の共同生活で、僕は一番年下でしたから、皿洗いから食事の準備、買い出し、布団干しなど丁稚奉公のような感じでした。

厳しい上下関係で辛かったんじゃないですか?

Vol12 牛越:でもこれが、先輩たちのように上手くなってプロになるための方法なんだと、早めに割り切ってやってました。そこで、3年間電車で通って冬でも浜辺で着替えてやってた頃に培った根性が活きました。

電車サーファーだった3年間に比べれば、何でもないと思えた?

牛越:はい、ものすごく忍耐みたいなものが養われましたからね。でもその根性や忍耐は、ハワイ修行になくてはならないものでした。

後にビッグウェイバーと呼ばれるようになりますが、そのルーツはこの時のハワイだったのですね?

牛越:厳しい上下関係でしたけど、海入ってる時は先輩もライバルですから波の取り合いもしました。だけど海の中ではみんなオープンなので、僕のほうが奥のポジションにいれば乗らせてくれたし、フェアでした。海と陸でのオンとオフをしっかり若い頃に学べて良かったです。当時ご一緒したのは糟谷修自さんとか坂本清克さん、沼尻和則さんといった人たち。良い意味で揉まれました。

プロになる前のこのハワイ体験は貴重でしたね?

牛越:
はい。それともうひとつ、プロになる直前にオーストラリアのベルズ・ビーチで開かれたワールドツアーの中の一戦に連れて行ってもらったんです。大会では2回くらい勝ててちょっと結果を出せたし、その後ベルズの周りをトリップで回って、良い経験させてもらいました。で、帰国してすぐの4月の茨城でプロテストに合格したんです。この16歳でのハワイと17歳での世界ツアー初参戦の経験で、自分のレベルが急激にステップアップしたと思います。

始めてわずか4年でプロに転向。でも並みの17歳とは経験値が違いますもんね。

牛越:
ものすごく多くのことを短期間で吸収しましたね。アマチュアの時もみんな周りはトップアマとして地元じゃ有名なヤツらばかりだったけど、自分は東京出身。だから経験をたくさん積んで吸収しなきゃという貪欲さが、たぶん人よりあったんでしょうね。

そうやって1989年、プロサーファー牛越峰統が誕生したんですね。

牛越:そうですね。自分を引っぱってくれる先輩たちに恵まれてましたね。本当に感謝です。

つづく…

牛越峰統 プロフィール

Profile_3 牛越峰統 プロフィール

牛越峰統★うしこしみねとう
生年月日:1971年10月21日
出身地:東京都調布市
職業:社団法人日本プロサーフィン連盟(JPSA)理事長

1994年、ASPワールドツアーWQS宮崎2位(日本人初ファイナル)、1995年、JPSAムラサキカップ新島で初優勝。その後海外ツアーを転戦し、1998年には当時の日本人最高位だった世界ランク89位をマーク。またフリーサーフィンでもハワイをはじめ世界各地で実績を残し、日本を代表するビッグウェイバーのひとりでもある。2003年にはJPSAグラウンド・チャンピオンを獲得。2007年からJPSA選手兼理事を務める。2009年、現役引退。2010年よりJPSAの理事長に就任。

スポンサー/Rock Dance Surfboards、Wave Worriers、BAYⅥ、G-Shock、Carver、INSPIRIT、annie、FCS、follows'、Jeunness、U4surf

※2010年7月現在のスポンサーです。

中井孝治 Vol.4

大会で点数をつけられるスノーボーディングではなく、自分の表現手段として滑りたい。そう考える中井さんは、この春、カナダの大自然の中へと踏み込んでいきます。毎年のように訪れるカナダの雪山で、中井さんが描くのはどんなラインなのでしょうか。

~自分ができることを、求める人に見てほしい~

中井さんが今、興味のあるスノーボーディングってどんなものなんでしょうか?

中井:
やっぱり人に点数をつけてもらうことよりも、自分ができること、自分が表現できることをやって、それを求めてる人に見てもらえたらいいなって思ってますけどね。

その表現方法がフリーライディング、っていうことなんでしょうか?

中井:そうですね。

今シーズンも残りは少ないんですが、今後の活動は?

中井:この後はカナダに行きます。

カナダのどのあたりですか?

中井:ブリティッシュコロンビアですね。西海岸のほう。で、たぶん月末くらいから行って。一ヶ月くらい行ってたいなって思ってるんですけどね。

向こうに行かれると、フリーライディングをなさることになるわけですか?

05_2 中井:そうですね。スノーモービルで山の奥まで入って行って、自然の山を滑ります。で、その様子を撮影する形ですね。

その撮影は日本のビデオクルーと一緒なんでしょうか?

中井:はい。一部、海外のクルーとも一緒に動く予定なんですが。そのあたりはまた、作品ができあがってからきちんと発表したいなぁって思ってるんで。今は内緒です(笑)。

そうですか、楽しみにしています。

~食わず嫌いじゃなくて、やってみてほしいです~

最後に、中井さんに伺いたいんですが。

中井:はい。

スノーボードを楽しんでいても、仕事や家庭の事情で思うように滑れなくなって。だんだんスノーボードから離れて行ってしまう人もいると思うんですが。

中井:あ、ありますね。

そういう人たちがまた、スノーボードを楽しめるようになるには何が必要なんでしょうか?

中井:う~~ん、難しいですね。自分の場合でいえば、天気が良くて雪が良くて仲間が一緒で。そういうスノーボードをしてると楽しいから。また滑りたいって思いますよね。あと、天気が悪くて今日はダメだろうなって思ってたのに、山に行ってみたら意外に良い。そういう時も楽しいですよね。
 当然ですけど、スノーボードの楽しさって街にはなくて。山に行かないとないんですよ。だから、その楽しさをいっぱい味わえるように。ダメだろうなとか、面倒だなとか思わずに。まず山に行ってみることじゃないですかね。

なるほど。

中井:食わず嫌いじゃないですけど。ダメだろうなとか思ってると、おもしろいことには巡り会えないから。美味しくないかもしれないけど食べてみる。ダメかもしれないけど行ってみる。面倒だけとやってみる。そうやって踏み込んでいかないと、おもしろさは続けていけないかもしれないです。だから、山に行ってみる。それじゃないですかね。

なるほど。シンプルだけど、深いですね。

中井:
スノーボード、楽しいですから。みんなにずっと続けてもらいたいですよね。

本当にそうですね。今回はありがとうございました。

中井:こちらこそ、ありがとうございました。

中井孝治 Vol.3

二度のオリンピック出場を経て、中井さんの活動は自然の山へ入り込むことへとシフトしていきます。けれどやっぱり大会は大好き。それは人と競い合うことではなく、多くの選手と得意の技を繰り出し合う「手合わせ。が楽しいから。このことをジャズの即興演奏に例えて「セッション。と呼ぶそうです。

 

~やっぱり大会は燃えました~

Vol32image 最近の中井さんはどんな活動が多いんですか?

中井:今シーズンは撮影中心ですね。雪が降ったら山に行って。写真や映像でパウダーショットを残して。雑誌やビデオで見てもらうっていう形ですね。

フリーライディングが中心、っていうことですね。

中井:
そうですね。で、たまに大会。

大会と言えば、先日はTOYOTA BIG AIRに出場なさったとか。

中井:そうなんですよ。

もしかして、今シーズン始めての大会ですか?

中井:その前に韓国の大会に行ったんですけど、ケガして本戦は滑れなかったんで。今シーズン、きちんと滑ったのはTOYOTA BIG AIRが初ですね。

久しぶりの大会はいかがでしたか?

中井:なんて言うか、実力を出し切る前に終わっちゃった感じなんですよね。

というと?

中井:ベスト8に残ったらやりたいなっていうワザがあったんですよ。

それは何ですか?


中井:
1080なんですけど。

え~と、空中で3回転スピン、ですよね?

中井:そうですね。で、予選は900(空中での2回転半スピン)でいけるかなって思ってたんですけど。8位まで決勝にいけるのに9位だったんですよ。

ギリギリだったんですね。

中井:そうなんですよね~。

そういう時って、最初から1080をやっておけば良かった、って思ったりするんですか?

中井:
いや、実際には900の着地で少しふらついたんですよ。あれは自分のワザの完成度が足りてなかったっていうことなんで。きちんと着地できてれば、900でも決勝にいけたと思うんですよね。だから、1080とか900とかっていうトリックのレベルの話じゃなくて、自分の力不足ですね。

そういう、久しぶりの大会はいかがでしたか?

中井:やっぱり燃えましたね。ここんとこ、フリーライディングばっかりしてたんですけど。やっぱりああいう現場に行くと、気持ちの中に戻ってくるものがありますね。これはちょっと、大会ももっと出ないとダメだなって思ったり(笑)。


~ジャンプの大会ならもっと出たいですね~

たとえばTOYOTA BIG AIRなんかはストレートジャンプの大会ですよね。

中井:そうですね。

中井さんはハーフパイプ中心のスノーボードをしてらしたわけですが。


中井:
はい。

次に大会に出るとしたら、ストレートジャンプとハーフパイプのどちらがいいですか?

中井:それはもう、ストレートジャンプですね。

それはなぜですか?

054 中井:単純にジャンプはまだ勝ち目があると思うんですけど。ハーフパイプはこのあいだのバンクーバーオリンピックを見ても分かるように、ダブルコークとか1080とか、ハイレベルなワザをマスターしてないと難しいと思うんですよ。大会を見てくれる人たちもそういうトリックを期待してくれてると思うから。なんて言うか、その難しいワザを練習するためにスノーボードしたいんじゃなくて、スノーボードの中に大会やパウダーがあったらいいなって思ってるんで。

難しいワザができない、っていうことじゃなくて。

中井:はい。今、ハーフパイプで見てくれる人たちの期待に応えようと思うと、スノーボードの優先順っていうか。やりたいことの順番が逆になるんですよね。今はやりたいスノーボードはもちろん、いろんなことを我慢して練習に集中しないと追いつけないくらい、ワザのレベルが上がってるんです。
 だけどオレはワザを練習したいんじゃなくて、スノーボードをしたいんですよ。その点ストレートジャンプなら、今やってることをそのまま表現できるんで。やるならそっちがいいですね。

なるほど。

中井:この前も本州で『KIng of Kings』っていうスノーボードの大会があったんですけど。ああいう、みんなが自分の得意なことを見せ合うセッションみたいな大会だったら、ハーフパイプも出てみたいですけどね。勝つためにこのワザをやらなきゃいけない、じゃなくて。自分の好きなワザを自分のセンスで出して、それでみんなで楽しむような。そういう表現することを大事にできるんだったら、ハーフパイプの大会も出てみたいと思いますね。

つづく・・・

中井孝治 Vol.2

チームの先輩が長野オリンピックに出場した。その姿を見ていた中井さんは、オリンピックに強い抱くようになります。おりしも世の中はスノーボード・ブーム。各地にハーフパイプが作られ、一大ハーフパイプ・ムーブメントが起こっているところ。その中で、中井さんはハーフパイプの選手として活動し始めます。

 

~海外の遠征は、毎回が冒険でした~

長野オリンピックをテレビで見て、オリンピックに出ることを考えるようになる。

中井:はい。

そこからオリンピックに出るためには、どんな生活だったんですか?

中井:とにかくポイントを稼がないといけないんで。SAJのハーフパイプの大会に出まくってました。長野の次の年からジュニアで活動するようになったんですけど。ナショナルチームに入れたのは高校1年生の時なんですよ。

ということは2000年ですか?

中井:
ですね。

03_2 の頃、ナショナルチームで活動するっていうことは、海外の大会にも出場しに行くっていうことですよね。

中井:
そうですね。

海外には慣れてらしたんですか?

中井:いや、全然ですよ。ナショナルチームに入れたって言っても、そのランクによっては大会のスケジュールに合わせて自分たちで自力で大会会場までいくことになるんですよ。だから毎回毎回、毎日が冒険な感じですよ(笑)。

それって知らない国に、16歳くらいの中井さんが一人で行く、っていうことですか?

中井:
実際には今回のバンクーバーにも出場した村上大輔とか、三つくらい年上の先輩とか一緒だったんで。一人っていうのは少なかったですけど。

それでも不安ですよね。

中井:そうですね。英語も全然喋れなかったんで、ちょっとしたトラブルで大冒険なんですよ(笑)。移動の途中で一泊だけ泊まることにしてたホテルがあったんですけど、似たような名前のホテルがありすぎて。結局、自分たちのホテルにたどり着けなくて。仕方ないからホテルを諦めて、空港のエスカレーターの影に潜り込んで寝たこととかありましたよ。

それは心細いですね。

中井:そうですね。でもその時に始めてワールドカップで表彰台に立てて。その成績が効いて、ソルトレイクに出れることになったんですよ。

空港で寝るくらいのことでは負けないぞ、ってことですね。

中井:そうかもしれないですね(笑)。



~ソルトレイクの時は気持ちよかったです~

そうやってソルトレイクとトリノ、二度のオリンピックに出場なさってるわけですが。

中井:
はい。

率直に、二度の大会を振り返ってみていかがですか?

04 中井:まぁ、ソルトレイクは良かったんですよ。ナショナルチームでやってきて、本当にオリンピック前のギリギリの大会で成績が出せて。その勢いでオリンピックに行けたんですよね。

なるほど。

中井:
だから何が良かったって、成績より何より、あんまりプレッシャーもなくて。自分がやりたいようにやれたから。悔いも残ってないし楽しかったんですよ。

楽しいばっかり、ですか?

中井:
そうですね。やらなきゃいけないことや、考えなきゃいけないことよりも、やっと夢が叶った、っていう嬉しさの方が上回ってましたから。

トリノは違いましたか?

中井:まぁ、4年経って大人になりましたから(笑)。その分、いろいろ考えちゃいましたね。結果出したいって思ってたり。まずは自分が納得するような滑りをする、っていう以前の部分で。考えなくてもいいことをいっぱい考えて、あんまり楽しめなかったんですよね。

そうでしたか。やはりオリンピックともなれば、大きな舞台ですからね。

中井:そうですね。自分ではあんまりいろんなこと気にしないようにはしてたんですけどね。なかなか思い通りにはいかなかったです。

つづく・・・

中井孝治 Vol.1

2002年のソルトレイクオリンピックにハーフパイプ日本代表として参加。見事決勝に勝ち進んで5位入賞。続く2006年のトリノオリンピックにも出場し、2大会連続出場という栄誉を手にしました。今回ご登場いただくのはプロ・スノーボーダーの中井孝治さん。ご自身のスノーボードライフを振り返っていただきながら、さまざまなお話しを伺いました。

~友達のお父さんに教わりました~


中井さんは北海道のご出身ですよね。


中井:
はい。生まれたのはニセコですね。

その中井さんがスノーボードを始められたきっかけは?

02 中井:始めたのは小学校6年生の時なんですけど。オレ、小学校2年生の時にニセコから札幌に引っ越して。その時一番最初に友達になったのが、佐藤晃洋(さとうあきひろ)っていうやつなんですよ。晃洋もスノーボーダーとして活動してて。今も『samurai』っていうビデオチームを一緒にやってる仲間なんですけど。その晃洋に誘われて行ったんですよね。そしたら速攻でハマっちゃって。

晃洋くんは先にスノーボードしてたんですか?

中井:
いや、そうじゃなかったんですけど。オレも晃洋も、それまでスノーボードはしたことなかったんですよ。けど晃洋のお父さんがスノーボードのインストラクターやってたんで。それで、晃洋とオレとふたり、スノーボードを教えてもらったんですよね。

最初からいいラインでスノーボードに飛び込んでますね~。


中井:
はい、そうですね。だから晃洋の父さんがスノーボーダーじゃなかったら、オレはスノーボードに巡り会うタイミングは違ったかもしれないですね。

中井さんのスノーボード初日はいかがでしたか?

中井:
やっぱり最初は曲がれなくて苦労しましたけど、その日に帰るまでにはなんとなく行きたい方向に行けてた気がしますね。

じゃあ飲み込みは早かったんですね。

中井:かもしれないですね。

それまでにヨコノリ系のスポーツはやってらしたんですか?

中井:いや、特に。スキーはやってましたけど。スケートボードなんかもちょこっと乗るくらいでした。


~長野オリンピックをテレビで見て、出たいと思ったんです~

そこからスノーボードにハマっていくわけですよね。

中井:そうですね。

その頃って、どんな感じでスノーボードしてたんですか?

中井:ちょうどスノーボードがブームの頃で。とにかくハーフパイプがおもしろくて、ハーフパイプばっかり滑ってました。

札幌でハーフパイプっていうことになると、真駒内ですか?

中井:いや、その頃はまだ真駒内にハーフパイプがなくて。テイネオリンピアとか旭川のキャンモアまで行ってたんですけど。滑ってるうちに大会に出たいなって思うようになって。スノーボード始めた年から、小さな大会には出てたんで。そのまま、少しずついろんな大会に出るようになったんですよね。

なるほど。

中井:で、SAJ関連の大会に出るにはスノーボードのチームに所属しないといけないんで。札幌市内の『アメリカンスポーツ』っていう所に入って大会に出てたんです。

じゃあその大会指向が、後のオリンピックに繋がっていく、と?


中井:
そうかもしれないですね。ちょうど『アメリカンスポーツ』の渡辺伸一さんが長野オリンピックに出場したんですけど。やっぱり知ってる人がオリンピック出るっていうことになると、テレビを見るにも気持ちが入るじゃないですか。そういうのを見てて、あんまオリンピックがどういうものなのかよく分からないんですけど、あ、こういうのもあるんだ。出たいなぁって思って。

それがいくつくらいの時ですか?

中井:長野オリンピックの時って、13歳かな。だから中学1年ですか?。

えと、スノーボード始めたのが、小学校6年生ですよね?

中井:そうですね。

スノーボード始めて、2年目の年にオリンピックを見て。

中井:はい。

そしてその4年後のソルトレイクオリンピックには出場なさってるわけですよね。

中井:
そう、ですね。

改めてすごい経歴ですよね。

中井:どうなんですかね(笑)。自分ではハーフパイプが好きで、ただ滑ってただけなんですけど。

つづく・・・

中井孝治 プロフィール

中井孝治★なかいたかはる
01 生年月日:1984年3月10日
出身地:北海道虻田郡
職業:プロスノーボーダー

2002年のソルトレイクオリンピック・ハーフパイプ日本代表に続き、2006年のトリノオリンピック・日本代表にも選ばれる。二度のオリンピックを経て、現在はコンテストシーンにも登場しながら、自然の山を自在に滑る「フリーライディング」の世界に主軸を置いて活動中。その軽やかなライディングは「RED EYE'S FILM」や「Seven Samurai」といったビデオレーベルの作品で見ることができる。

スポンサー/SALOMON、BONFIRE、Revolt、VOLCOM、NIXON、HOLMENKOL、Carver、シャイデンタルラボ
※2010年3月現在のスポンサーです。

インタビューゲスト
全てのインタビュー
GOCCI
『銀色のシーズン』監督 羽住英一郎
たんばらスキーパーク
スノースポーツ研究者 服部英一
ドジ井坂
ニック・ペラタ
三星マナミ
上田ユキエ
上野雄大
中井孝治
國岡あい
寺田シュリ
山木匡浩  
岡部哲也
平岡暁史
林亜紀子
牛越峰統
石田貴博
藤森由香
遠田真央
雪氷学研究者 永井拓三
過去のインタビュー記事