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ドジ井坂 Vol.4

ビーチクラブでの活動ともリンクしますが、ドジさんは「ニューサーフスクール」というサーフィンのトレーニングにも力を入れています。一般に知られているサーフィンでの体の使い方の常識は、ドジさん曰く、実は間違いだらけだとか。上達するためには、どのような練習がいいのか…。目からウロコの理論と、それに基づいたトレーニングキットで、改めてスポーツとしての正しいサーフィンを広めています。

 

~サーフィンの常識って、実は都市伝説だらけなんです~

Isaka04_01 ビーチクラブで実践的な海での遊びを広めている一方で、「ニューサーフスクール」というサーフィンの講習もやっていますよね? どんなコンセプトなんですか?

ドジ:あのね、サーフィンがスポーツにならない環境自体を、どうもサーフショップが作ってるんじゃないか、と僕は思ってるんですよ。モノは売っているけど、ノウハウは売ってない。サーフィンスクールなんか酷いものですよ。波が来たら後ろから押してるだけ。ゴルフで例えたら、後ろから一緒にクラブ持って振ってるのと同じじゃないですか。それでゴルフレッスンって言えますか? ゴルフの場合は、ゴルフコースと練習場がある。ゴルフコースは実践の場、サーフィンでいったら海です。でも練習場はないんですね。で、ゴルフ練習場のような考え方でサーフィンの練習ができないだろうか、と考えたわけです。やっぱりスポーツで言えることは、練習のプログラムがない限り上達は難しい、ということ。

ドジさんは「サーフィンクリニック」という教本的なロングセラーの著書がありますが、そうしたノウハウを教えているのですか?

 

Isaka04_02_2 ドジ:まず基本の理論は正確に伝えなければなりません。それは本に書いてあります。書いてなかったのは練習の仕方なんですよね。こうやったら上手くなるという理論は書いてあるけど、じゃぁそこで50回やったら確実にみんなより上手くなるよという、練習達成目標みたいなものを明確にしていなかった。他のスポーツのハウツー本を見てみると、ゴルフ練習場でどうしたらいいかって本まで出てるわけ。海は本番なんだから、その本番前にリハーサルしなきゃいけないですよね。

確かにそうですね。それでさまざまなトレーニングキットを開発したんですね?

ドジ:そうです。テイクオフトレーニングキットやパドリングトレーニングキット、バランスキューブ、バランススティック。これらを総称して「サーフィン修理工場」と言ってます。意外にみんな自己流でやっているし、無駄な動きをしている。サーファーの間で常識だと思われていることが、実は大きな間違いだったりすることが多いんです。都市伝説だらけです(笑)。実は、筋肉だってそんなにいらないんですよ。

え、そうなんですか?

ドジ:だってバランス良ければ子供だってできちゃうでしょ。子供ができるのになんで大人ができないかというと、間違った筋肉を動かしてるからなんです。パドリングトレーニングキットも負荷は1.5kg程度ですよ。これを一日100回やるだけ。100回やれば筋肉が動きを記憶してくれるんですね。昨年、高校生でJPSAロングボード女子のチャンピオンになった割鞘ジュリプロは、これ使うようになってパドリングがすごく速くなって、一気にサーフィンが開花しちゃった。あとは最近の若手で活躍が目覚ましい大橋海人プロにもトレーニングのアドバイスしています。

 

~今後、全国の主要な拠点に教室を開設していきたい~

Isaka04_03_2 このニューサーフスクールはどのくらい続けているんですか?

ドジ:もう2、3年になりますね。最初はサーフショップ中心にやってたんだけど、ちゃんとスクールの仕組みを体系立てていって、インストラクターも置けるようにしていこうと考えました。辻堂の駅前の「いい物件リスト」のビルにビーチクラブと共有のトレーニングルームがあって、日常的にインドアのクリニックもやってるんです。通常夜7時からのコースなんだけど、仕事終わるのが遅い人もいるから、夜9時からのコースもやろうかと思ってます。1泊2日のサーフィンクリニックもありますよ。泊まりの場合は、海で合宿。インドアで理論を理解し、練習を繰り返して、海で実践するんです。

海でひたすら練習するんじゃなくて、陸上トレーニングに重点を置くことって、今までの
スクールになかったですよね。

ドジ:今までショップでやってたスクールは、スクールじゃないでしょう。あれは単なるサーフィン体験の補助にすぎない。スクールっていうのは学習して習得するところ。毎日海に入れる人はいいけど、一般の人にはそれは現実的じゃないでしょう。だから今、ゴルフ練習場と同じ発想で、全国の主要な拠点にこういう教室を開設したら良いんじゃないかと思って、そういう運動もしていこうと思っているんです。

そうなると、スポーツとしてもっと広がりそうですね。

ドジ:よく海のマナーについてあれこれ言うけど、みんなサーフィンをスポーツと捉えて練習してから海に行くようになったら、マナーは自然に身についてくる思うんですよ。練習しないで海に行くって、ある意味マナー違反。スポーツとしてやってない奴がいるから、マナーが悪いんだよね。本来、普通の常識の範囲でお互いに問題解決できるはずですよ。それがスポーツなんです。

サーフィン未経験者も来るでしょうし、いろんな年齢の人が受講されてそうですね。

ドジ:これまでの最高齢は73歳。今度、千葉の養老院でこのキットを使ったトレーニングをしてみようと考えてます。60歳過ぎたオジイさんオバアさんサーファーが出てきたら面白いなぁ。

もちろん若い子も多いのでは?

Isaka05_01 ドジ:小学生もいますけど、小学生は例のビーチクラブのレベルで参加してもらえば良いんです。間違った知識や無駄な動きで手こずる大人と違って、子供は理論とかじゃなくて、体で覚えられちゃう。失敗したら、次はこうやってごらん、って教えると、とたんにできちゃう。それで、できたーっ!って開眼してハマる。それがスポーツの最大の魅力だと思うんですよ。

きた時の嬉しい気持ちは、大人も同じですよね。まさにサーフィンの醍醐味。

ドジ:だから、サーフィンの間違いだらけの都市伝説を正していきたいんですよ。正しいやり方を身につければ、スポーツとして上達するし、疲れない。

まさにドジさん自身が修理工場ですね。これからも、海を中心に多方面でのご活躍を期待しています。今回はありがとうございました。

ドジ:こちらこそ、ありがとうございました。是非みなさんにも、もっと海を利用して楽しんでほしいですね。

ドジ井坂 Vol.3

自身が関わった「相模湾アーバンリゾート・フェスティバル1990」で作られたボードウォークを、その後ドジさんはひらつかビーチパークとしてプロデュースし、そこにビーチクラブを設立します。ビーチクラブ型海岸活動の提言をし、国土交通省を巻き込んでのプロジェクトがスタート。海と人が共生していく場づくりを、きちんと行政と話し合って進めていく、まさにドジさんの真骨頂です。

 

~うまく行政を利用し、運営は自分たちでやるという発想です~

ドジさんが手がけたひらつかビーチパークは「相模湾アーバンリゾート・フェスティバル1990(通称=サーフ90)」の際に作ったんですよね?

ドジ:そうですね、89年にプレイベントをやって、90年に相模湾の三浦と藤沢と平塚と小田原の4ヵ所をコア会場にして行われました。海を遊ぶということをコンセプトに置いて、平塚にビーチパークを作った。なぜ平塚だったかというと、海水浴場がなかったからなんです。海水浴場がある7月8月はサーフィンができないし、ヨットやウインドサーフィンなどのセイル系もだめ、ジェットスキーみたいなモータークラフトも入ってこれなくなるでしょ。だったら逆に、真夏に人が見てる前で海水浴以外のスポーツができる場所を作ろうよ、というのが基本コンセプトだった。

Isaka03_01 海水浴場で禁止されている遊びができる場所…。まったく逆のコンセプトですね。

ドジ:はい。海水浴以外の他の遊びを排除している点で、海水浴場っていうのは排他的なエリアですよね。その排除された遊びを集めて、ビーチスポーツ&レジャースタジアムっていう名前でイベントをやったんです。風が吹いてきたらウインドサーフィンやセイリング系の連中が遊んで、波が上がったらサーファーがカッコよくサーフィンして、波も風もなかったらパドルするとかジェットで遊ぶとかね。ビーチが観客席で、海の上で遊んでいる連中がそれぞれヒーローなんだと。そうやって、それぞれ3つの違うコンディションの中での遊び方をみんなで工夫するんですよ。

世界を見てきたドジさんなりの理想みたいなものが平塚に活かされたのですか?

ドジ:あんまり僕は理想って考え方をしないんだけど、なんとなくこうなればいいなぁ、っていう思いはありました。あとは海に対する利便性の問題を考えた。
道具をみんなでパブリックに共有できて、好きなものを楽めたらいいなと。そのためには解ってる人間がそれぞれの地域や施設にいてくれたら便利ですよね。そう考えていくと、結局は人間を養成することを含めて、ひとつのプロジェクトになっていくわけです。

一般的に行政主導でハコモノを作ると、ハードを作ったはいいけど、ソフトがないからその後の利用が続かなかったりしがちですが。

ドジ:行政に依存してるからそうなるんだと思う。僕の場合、行政を利用すればいい、っていう発想ですから。行政に仕掛けて造らせたら、その後はこっちが運営する。ちゃんとした二人三脚状態をいろんな形で作っていけばいい。これからどんどん行政のテリトリーを取っていっちゃおうと思ってます(笑)。

 

~コミュニティとしてビーチクラブが広がっていけば良いですね~

Isaka03_02 ひらつかビーチパークから、海との共生をテーマに、通年型ビーチクラブが生まれたんですよね? 

ドジ:92年に正式にビーチクラブができて、その活動が上手く実って96年にビーチセンターの施設が海岸にできたんですね。で、平塚での実績が湘南に飛び火すると思っていたら、日本の行政は縦割りだから隣町で何やってるのかほとんど知らなくて、いっこうに何の動きもないわけですよ。そうしたら国土交通省のほうから、平塚のビーチパークとビーチクラブの海岸利用は面白い、ということで、新しい海辺の文化創造研究プロジェクトをやりたいから、その委員をやってくれって言われたんです。

国交省の社会実験的なプロジェクトですよね。

ドジ:そう、予算も付けてくれた。じゃぁ今度は試しに海水浴場で海岸利用の実験してみましょうということで、2003年に江の島でやったわけ。江の島水族館と組んで江の島ビーチクラブを作った。それで湘南各所に、ちょっと面白いから仕掛けるぞー、って声かけて、自治体を巻き込んでビーチクラブを作っていったんです。なにしろ国交省のプロジェクトという錦の御旗がありますから、すんなり話は通りますし。今は一般社団法人にして、体験学習や修学旅行のプログラムを逗子市の観光課と組んで企画したり、今度伊豆の下田市にもビーチクラブ作ることになってるんです。

今ビーチクラブはどのくらいあるんですか?

Isaka03_03_2 ドジ:今は12まで増えました。それぞれの海岸の特性を活かして、遊ぶ種目も違います。鴨川だとサーフィン系が多いですけど、逗子とかは今10種目ほどありますね。マリンスポーツやビーチでできる遊びです。夏場の体験参加者は500人くらいになりますよ。

500人!? 定員とかはないんですか?

ドジ:定員は設けてないです。人が来た中からまたボランティアが生まれていくんで、定員を作る必要はないと思う。今、逗子ではシニアのボランティアの方が30人位登録してて、彼らがサーフィンやウインドサーフィン、その他の新しいスポーツを覚えながら、人にも教えている。彼らは以前、企業の社長だったりホテルの支配人だった人たちですよ。だからリーダーシップをとって人を引っぱっていくのが上手いわけ。そんな人たちがテントの設営から指導までやってくれてるんです。

じゃあボランティアだけでも相当な人数いるんですね?

ドジ:100人以上います。体験者も含め、もうこれはコミュニティ活動ですね。体験者も、以前に鴨川で体験したけど、今度は逗子で参加してみようとか、交わりや広がりがでています。温泉と一緒ですよ。一カ所の温泉だけじゃなくて、気持ちいい温泉というコンセプトを、いろんな場所で楽しみたいわけでしょ。そこで観光というものが生まれる。だからこれは、海観光みたいなものです。今、式根島や新島、神津島ででも何かできないかって東海汽船と企画を考えているところ。今後もどんどん広がっていきますよ。

つづく…

ドジ井坂 Vol.2

1980年になると、ドジさんは競技の第一線から退き、メディアを活用してサーフィンのイメージアップや普及活動に力を入れていきます。ブームのきっかけを作り、湘南はカリフォルニアのようにビーチカルチャーの発信地に。テレビでは「オールナイトフジ」のサーフィンコーナーでレギュラー出演するなど、持ち前のキャラクターを活かして大活躍。さまざまなイベントも仕掛けました。

 

~日本にも、ビーチ発信のカルチャーが生まれました~

Isaka02_01 サーフィンをメディアで一般にうまくPRしたのも、ドジさんでした。何か意図があったのですか?

ドジ:60年代終盤から70年代のサーファーって、僕らもそうだったけど、やっぱりカウンターカルチャーがベースで、体制反発型でしたからね。海系ヒッピーみたいなことを地でやっていた。まぁ今で言う不良の原型を、これもアメリカのファッションだろ、みたいな感じでサーファーはデモンストレーションしてたわけですよ。でも80年代を前にして、ふと思った。海外では70年代にプロ化が進み、自分も76年に全日本プロサーフィン選手権大会で初代チャンピオンになってたし、サーフィンのプロフェッショナル化とは何か、ということを意識するようになった。本当のプロスポーツにするために、やっぱり一般の人に知ってもらおうと考えたんです。で、マスメディアでPRする考えが自分の中に芽生えて、テレビやラジオに出るようになった。それからFineを含め、サーフィン誌以外の媒体にどんどんサーフィンを紹介した。一般の読者に向けて、海って面白いよ、サーフィンって楽しいよ、っていうことを言い続けた。海がもう少しみんなにとって良い場所になったらいいなぁ、と思ってましたから。

それは大きな効果を生みましたね。80年代初頭にはサーフィンブームが来ましたし…。

ドジ:ええ、それまで湘南という言葉は一般的ではなかったんだけど、一気に若者の夏のカルチャーの中に、湘南詣でのようなブームが沸き起こったんですね。僕らは「湘南カウンティ」ってその頃言ってたんだけど。つまり神奈川県の中の湘南郡。この湘南がビーチカルチャーの発信源だ、というふうに意識していた。水着ファッションっていう言葉からビーチファッションに変わったのも、その頃だった。水着だけでなくTシャツも、サーフトランクスも、いろんな小物がビーチ発信で流行りましたよね。カリフォルニア文化とハワイ文化が混ざって、日本独自のサマーカルチャーを生み出していた。それは、かつての海水浴文化とは全然別もののファッションであり、カルチャーだったことは事実でしたね。

ドジさんが見てきたカリフォルニアの海沿いの雰囲気に、かなり近づいたんじゃないですか? 

ドジ:湘南とカリフォルニアを比べると、どこか雰囲気は近いものがありますよ。例えばロサンゼルスのサンタモニカからレドンドまでって江の島とか鎌倉っぽいし、南のラグーナまで下りると葉山っぽかったり、ニューポート・ビーチあたりはちょっと逗子マリーナや葉山マリーナみたいだし。ハンティントンは平塚っぽかったりしてね。地域ごとに特性があって、住んでる人もちょっと違う。こじつけて見ると何か似たようなものがある。だけど、雰囲気や環境は近くはなったものの、いっこうに湘南の海岸に施設ができないのが、僕にとっては最大の疑問だった。なぜ日本は夏だけ海水浴場に海の家を作って、また壊しちゃうのか…。

 

~企業や自治体を巻き込んで、いろんな仕掛けも作りました~

サーフィン界では81年から「丸井プロ サーフィン世界選手権」をプロデュースしたことは有名ですが、83年にはウインドサーフィンの世界大会「サムタイムワールドカップ」のイベント・ディレクターも務めましたね。

ドジ:僕にとってはサーフィンやビーチカルチャーを通して、海水浴場を含めた海との関わりがいろいろと見えてきた頃でしたね。サムタイムのウインドサーフィンの大会をプロデュースする時にまず思ったことは、波以上に風ってオンとオフが激しいわけだから、風が吹くまでの間はサーフィンのアトラクションでもゲームでも何でもいいから、とにかくビーチにいて1日楽しめることをプロデュースしなきゃ、って思ったんです。

Isaka02_02 ビーチでのイベントですか?

ドジ:ビーチをもう少し日本人が気軽に使えるようにしたいと思いました。サムタイムのウインドサーフィンの施設がビーチセンター化していて、そこに来れば売店もあるし放送もやってて、アトラクション的なものもある。もちろんハイライトには世界最高峰のすごいレースが行われるんだけど、レースがない時にもその他のエキシビジョンがあって、要するにリゾートとして楽しめる。そういう施設を作ることによって非常に面白いことができるんだなぁ、って80年代にウインドサーフィンの大会をやって思いましたね。

スノーボードも早かったし、かなり普及に尽力されました。

ドジ:実は、スキー場と海水浴場ってすごくよく似てて、排他的。スキー場は冬の降雪期間だけの仮設営業でしょ。スキー場と名乗っているから、ここではスノーボード禁止、スノーボード場をどこかに作ればいいじゃないかって、すごく乱暴なことを言う人が当時は多くてね。で、反逆精神がメラメラと沸いて、航空会社と組んで北海道のスノーボード無料体験キャンペーンをやって、全北海道のリゾートでスノーボードを解禁させちゃった。そんな仕掛けを作って、徐々にスノーボードがスキー場でも受け入れられるようになっていったんです。

そういういろんな仕掛けのアイデアは、やはり海外の事情を知っているからなんでしょうか?

ドジ:80年頃からASP(世界のプロサーフィン連盟)の広報担当的な仕事をやってたんで、世界中の海岸を周る機会があったんです。必ずレセプションなんかあってその土地の行政の人とお話できるんで、案内して頂いたり、その海岸の生い立ちみたいなものを聞かせて頂くんです。リゾートに発展していったビーチと、日本の海水浴場とでは、そもそもメンタリティが全然違う。そういう取材や知識が、自分にとっては糧になっていますね。

つづく…

ドジ井坂 Vol.1

幼い頃から茅ヶ崎の海で育ち、日本のサーフィン黎明期にサーフィンを独学で始め、初代チャンピオンに輝いたドジ井坂さん。初めてカリフォルニアを訪れた1960年代後半、遊ぶ側も管理する側も大人の常識で海と関わっているアメリカのビーチカルチャーと、季節限定で排他的な日本の海水浴場文化の差に愕然としたとか。この経験が、ドジさんのその後の活動のバックボーンとなりました。

 

~裸足で歩く砂浜の感触が、海との関わりの記憶ですね~

そもそもドジさんと海との関わりの原点は、やはり茅ヶ崎の海ですか?

ドジ:その頃の茅ヶ崎は何もない半農半漁の田舎でね。東京から少しずつ人が住み始めたようなところだった。ウチも東京から移ってきた、移住組のはしりでした。子供の頃の遊び場というと海か松林か畑の中。学校も家も海岸に近かったこともあって、いつも海岸を通って登下校してました。幼稚園の時に好きだった女の子が溺れて亡くなったりして、海に対して妙な、不思議な気持ちを持ちながら、自然と海と付き合っていた感じですね。ウチは台風になると「波すごいよね、見に行こうか」って一家総出で海見に行っちゃうような家でした。一回波打ち際で流されちゃったこともあったし。

Isaka01_01 子供の頃に、楽しいだけじゃない、いろんな表情の海を経験されているわけですね。

ドジ:子供の頃は砂浜で思いっきり遊んだ記憶があります。固いグラウンドだとできない突き飛ばすような遊びも、砂浜なら転んでも痛くない。そんな裸足で砂粒の上を歩いてる感触が、今でも自分の中には海の感覚として残っていますね。

そんなドジさんがサーフィンと出会ったのは、中学生の頃ですか?

ドジ:ちょうどビーチボーイズ、ベンチャーズ、ジャン&ディーンなんてサーフィンの音楽が出てきた頃で、テレビでも流行ってた。僕はアメリカにかぶれ始めて、最初はアメリカン・フットボールをやりたかった。それで生意気にも銀座の洋書屋さんに雑誌を買いに行ったわけ。そこでサーフィンの雑誌を見つけたのがきっかけでした。これって、茅ヶ崎の海だったらできるじゃん、みたいな。

でもサーフボードはまだ日本にはなかったですよね?

ドジ:ところが意識してよく見てみると、厚木や座間の米兵が夏になるとボード持って茅ヶ崎あたりに来てるんだよね。そんな彼らを追っかけまわして、片言の英語で、どういうもんなんだ、見せろとか乗せろとか言って貸してもらって、面白くなっていったんです。60年代の初頭の話ですね。僕は洋書屋で見つけた、サーフボードの図面が書いてある本を見ながら木造のサーフボードを自作しました。ちゃんと機能しましたよ。でもね、誰もサーフボードなんか知らないでしょ。だから置いておいたら、何これ、って燃やされちゃったの(笑)。

その頃、周りにサーファーはいなかったんですか?

ドジ:当時、大磯や鵠沼にも同じようにサーフィンを覚えた連中がいてね。地域ごとにサーフクラブもでき始めていた。僕らは茅ヶ崎バーバリアンズといって、西野くんという友達の家の庭にクラブハウスを建てて、たまり場にしてました。ウレタンフォームが手に入るようになってからは、サーフボードも自分たちで作った。ボードをお店で買った記憶がない。ほとんど自給自足か、友達が作ったものを買うか。結局その後、サーフボード・メーカーにもなっちゃいましたけどね。

 

~アメリカを体験して、日本の海は変だぞ、と思いましたよ~

日本のサーフィン黎明期を体験されているドジさんですが、世界に出たのも早かったですよね?

ドジ:初めての海外は1968年。1ヵ月半ほどカリフォルニアのアーニー・タナカというシェイパーさんのところに、サーフボードの削り方の基本やテクニックを習いに行きました。ノウハウみたいなものは日本にはなかったんですよ。サーフィンはその頃、文化的にもカリフォルニアだったし。ファッションもそう。やっぱりナマでそういうものを見たいっていう意識が強かった。もともとアメリカ文化に傾倒しちゃってる人間でしたからね。

その翌年に初の全日本サーフィン選手権の初代チャンピオンに輝きましたね。

ドジ:そうそう。それで次の年、メキシコで開催される予定だった世界選手権に日本代表として出場するために行ったんだけど、実は大会はキャンセルになってた。知らなくてウロウロしてたら、アメリカのサーフィン雑誌に「ドジな日本のチャンピオンがメキシコでコンテスト会場を探してたぞ」とか書かれちゃって…。「翌年のオーストラリアの大会でも「君がドジな日本のチャンピオンか」って言われて、いつの間にかドジっていうのが通称になっちゃったんです。

Isaka01_02 早い時期から海外へ行かれたことで、日本の海と海外の海との違いみたいなものを感じましたか?

ドジ:圧倒的な違いは、ビーチにいろんな施設があることですよね。シャワーや駐車場、それからライフガードの詰めてる管理塔。ロサンゼルス郊外には、一年中海で遊べる環境がありました。海沿いの道路にはドライブインがあって、そこから海が見えて、サーファーたちがみんなでハンバーガーを食べてるんですよ。日本は夏場の海水浴場しかないけど、向こうの海は一年中人が利用できる。すごいカルチャーショックでしたね。もうその頃から日本の海岸はおかしいぞ、何とかして一年中海が使えるようにしたい、と思うようになりました。

日本の海文化は、海水浴場ですもんね。海開きなんて言葉もあったりして…。

ドジ:おかしな言葉だよね、海なんて一年中開いてるのに。突然7、8月に人がわいてきて、また9月になると突然人がいなくなる。ちょっと異様。人が管理しているのは2ヵ月だけで、後は自然海岸に戻してるわけです。で、海や川は危ないですよ、っていうキャンペーンを国土交通省がやってたからね。だから海に慣れてない人たちは、海水浴シーズン以外の海は危険だと暗示にかけられちゃった。

海外では、遊べるビーチにはライフガードが通年いますよね。

ドジ:しかも、その海を一年中使うために彼らはどのように海岸管理をするかを考えてる。日本のライフセーバーやライフガードのような単なる救助員とは違います。もっと大人の世界ですね。利用する市民もいろんな目的で海で遊んでて、管理側もそれを受け入れる。双方に大人の常識があるんでしょうね。日本は海水浴以外の遊びは認めないから、サーフィンなんかはガキの遊びみたいな位置づけにされちゃうんです。そうした差異を知り、漠然とですが、なんか日本は変だぞって思ったわけです。

つづく…

ドジ井坂 プロフィール

Isaka05_02 ドジ井坂★どじいさか(本名:井坂啓己 いさかひろみ)

生年月日:1948年3月13日
出身地:東京出身、神奈川県茅ケ崎市育ち
職業:海おやじ(海のスポーツ&遊びをすべて受け入れて楽しむ指導者リーダー育成&伝承のためのキャラクター)、一般社団法人 ビーチクラブ全国ネットワーク 理事長、Beachschool.com 主宰、株式会社 海十山商品研究所 取締役

1969年、全日本サーフィン選手権で優勝、70年にオーストラリアの世界選手権に日本人として初出場、76年には全日本プロサーフィン選手権の初代チャンピオンに輝く。日本サーフィン史にその名を刻むサーフィン界のレジェンド。81年から「丸井プロサーフィン世界選手権大会」をプロデュース、83年にウインドサーフィン世界大会「サムタイムワールドカップ」のイベントディレクターを務める。90年に「サーフ90」のプロジェクトに関わり、ひらつかビーチパークの開設を企画。その後「ビーチクラブ全国ネットワーク(http://www.beachclub.jp/)」の事務局を設立し、全国にビーチクラブのコミュニティを広げる。現在、独自の理論に基づいたニューサーフスクール(http://www.beachschool.com/)を主宰。サーフィンやマリンスポーツの普及やビーチカルチャーの振興に尽力する。

スポンサー/「いい物件リスト」リスト株式会社(神奈川のビーチクラブ全体をスポンサー)、パタゴニア(スタッフウエア提供)、ハワイアンアイルス、ビラボン

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